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山祝いの宿場
「春風の 手形をあけて 君が代の 閉ざさぬ関を こゆるめでたさ」
元和4(1618)年、「入鉄砲に出女」の取締強化のため、ここ箱根にも関所が作られた。 それは家康の伝馬制の発令からは、十数年遅れてということになる。
箱根の関所の主な役割は、「女人と武具は御証文なくば通さず」と言う、所謂入り鉄砲に出女の取り締まりだ。 番所の周りや背後の山、芦ノ湖の湖岸にまで強固な柵を巡らし、関所破りをさせない備えがされていた。 抜け道となる間道の要所にも「裏関所」が設けられて、厳しく監視していたと言う。 また街道を行き来する旅人も、常時監視の対象となっていたようだ。
その役割を担ったのが、「関所守り村」の存在で、いわば「影の関所」の役目を果たしていた。 箱根で言えば、間の宿・畑宿で、宿内では村人が商いをする傍ら、通行人の監視と言う任も担っていたらしい。 そんな万全の備えをし、一方で当初から通行する者には、関所破りは大罪と流布し、警告を発していた。 その結果、江戸幕府250年に余る関所の歴史で、ここを破った者は5人しかいないと記録は伝えている。
箱根は当時平坦地のない原野で、米も出来ない石高ゼロの痩せ地であった。 その為租税免除を条件に、峠の入口の小田原と三島からそれぞれ50軒を強制的に移し、宿場町を形成させたと言う。 宿内の総家数197軒、うち本陣6軒、脇本陣1軒、旅篭36軒、人口は900人足らずの宿場の成立である。
厳しいお調べを経て、何とか無事関所を越えれば、「山祝い」と称した祝宴をこの宿場町で開いたという。 取り締まりの厳しい関所の脇と言う事で、さすがに飯盛り女はいなかったらしい。 それでもこの時だけは飲み食い歌い、大いに羽目を外したと伝えられている。
町中で見かけた「雲助だんご」と書かれた看板に引かれ、その店を訪ね名物だと言う団子を食べてみた。 新潟産こしひかりを炊き、餅につき上げた白玉団子に、北海道産小豆の餡をたっぷりと乗せた団子だ。 さっぱりとした甘さが歯ごたえの良い団子に絡んで美味しかった。 他にもゴマや黄な粉を塗したものが有るらしく、箱根の雲助たちが愛した団子の味が店の売りだと言う。
当時の雲助がこんな美味しいものを常食していたかどうかは知らない。 しかし雲助は、駕籠かきや荷役など、体力が資本の職業である。 健康維持、体力増強には、猪や兎などの肉を日頃から食していたとの説もあり、案外美食家だったようだ。
井上靖の記念碑
ささやかに「雲助だんご」で「山祝い」をした後、箱根を後に旧道に入り西坂を下る。 旧東海道は、箱根宿の町並みを抜け芦ノ湖と分かれ、箱根山の外輪山846mの箱根峠を超えると伊豆の国に入る。 箱根エコパーキングの所で左に峠の茶屋を見て、舗装された道を歩き、旧街道入口の道標に従って旧道に入り込む。 ここからは延々と、「箱根西坂」と言われる下り道が続くが、下りだから楽なわけでもない。 昔は人馬とも下り道の方が難渋したらしく、駄賃も人足に払う賃銀も下りの方が高かったと言う。
暫く歩くと、街道筋からは外れ、少し奥まった場所に、木立(ササ)が覆い隠さる広場があった。 辛うじて周囲の草木(ササ)を刈り払った、僅かな平地に小さな休憩施設の東屋が建っている。 そこには井上靖の箱根八里記念碑があり、傍らに木製看板が立つが、文字は完全に消えて全く判読出来ない状態だ。 石碑には、本人の揮毫による「北斗欄干」言う文字が刻まれている。 「北極星が夜空に燦然と輝いている」と言う意味らしい。
井上靖は北海道生まれの作家だが、静岡県とも大変にゆかりの深い文豪である。 中学生時代には両親の元を離れ、祖母と共に伊豆の湯ヶ島や浜松、沼津など主に静岡県内各地でで生活している。 その体験から「しろばんば」「あすなろ物語」「夏草冬涛」などの自叙伝的な作品を多く残している。 文化勲章を受章し、ノーベル文学賞候補ともなった作家の記念碑にしては、荒れていて粗略な扱いが寂しい。
箱根峠を越え、甲石坂、石原坂、大枯木坂、小枯木坂等を下る。 その先で山中城址を見て、更に下長坂、時雨坂、臼転坂など、東坂に引けを取らない名うての急坂が続く。 下りきれば、伊豆の国唯一の宿場町である三島の宿で、そこまで三里二十八丁(凡そ15Km)の道程が待っている。
ハコネダケの自生地
再び旧道に戻り坂を下るが、ここら辺りは特異な景観を見せる道が続いている。 両側には成長した笹と言うのか、細い竹と言うのか、そんな植物が密生群生し、鬱蒼としている。 背丈以上に伸び、アーチ状にしなって旧道を覆っていて、丁度竹で出来たトンネルを行くような不思議な感覚だ。 これは「ハコネダケ」と言い、この付近の火山性の土壌で生育するらしく、自生しているものだ。
東海道の整備に乗り出した江戸幕府であったが、当初は道そのものの整備まで手が廻らなかった。 ここ箱根の西坂も、雨や雪の後は大変な悪路となり、ぬかるむ泥道に旅人は泣かされていたと言う。 特にこの辺りは、火山ローム層と言う特殊な地層で、湿った悪路は相当なものであったらしい。
そんな悪路解消の対策として考えられたのが、竹を伐採し敷き詰めると言う方法である。 この辺りに豊富に自生する、この「ハコネダケ」を刈り取って、束ねたものを敷き詰めていたようだ。 しかしこれらの作業は毎年行う必要があり、その竹の調達には莫大な費用と労力を強いられていた。
そこで幕府は石畳道への改修に踏み切ったのだそうだ。 付近で切り出される割石を用いた、当時としては最高の技術による舗装道路である。 石を敷き詰め、石畳の上を流れる雨水は石畳の外側に設けた縦の排水路に追い出し、石畳を保護する工夫もした。
平坦道を確保する一方では、石畳の表面はあえて凹凸をつけ歩き難くしていたとも言われている。 一朝有事の際、江戸に大勢の兵士が一気に、又容易に攻め込んでこられないようにする意図があったようだ。 東海道は多くの庶民が行き来する公道では有ったが、幕府にとっては戦力的な要路でしかなかったのだ。
「かぶと石坂」を下ると、その途中に箱根山中における接待の場所、「接待茶屋」の看板が立っている。 ここでは旅人に一椀の粥を、馬には一桶の煮麦(飼葉)を、そしてたき火や火種を無料で施していた。 今では茶屋の建物は何も残ってはいないが、当時表に掛けられていた看板が今も保管されている。 そこには「永代、せったい所、江戸呉服町加勢屋友七祖父、施主、与兵衛」と書かれているそうだ。 ここは江戸の篤志家による寄付金で運営されていた茶屋があった場所で、この辺りを施行平と呼んでいた。
その先に「かぶと石」と書かれた説明板が立てられている。 その奥を見ると、苔の生した、一見すると兜のようにも見える、三角錐上の大きな石が置かれている。 かぶとのように見えるから、「かぶと石」と言うらしい。 また豊臣秀吉が小田原攻めの折、この地で休み、自身の兜をこの岩に置いたから名付けられたとも言われている。
そう言えば箱根八里記念碑の近くにも「兜石跡」と書かれた石柱と、半ば土と枯れ笹に埋もれた大岩が有った。 東海道名所図会には「甲石坂に甲石二つあり」と言う記述が有り、元々かぶと石は二つあったようだ。 いつの間にか土に埋もれていたものが、国道新設工事に伴い掘り起こされ、元々の位置から移されたものらしい。 更に進むと、この地で明治天皇が小休止されたと言う石碑も建てられている。
嘗て京の都から東下りする場合、古代東海道のルートとしては、箱根の北の足柄峠が利用されていた。 しかし、この道は富士山の噴火の影響を受け、度々通行に支障が出ていたと言う。 江戸時代になると上り下りは厳しいが、距離が短い事から箱根峠を超えるルートが東海道に組み込まれた。 街道は、天下の剣と言われる峠越え八里の道程であったが、しばらくはその間に「宿場」は置かれてはいなかった。 当時の箱根は、人も住まない山中で、平坦地も無い厳しい地勢であったからだ。
古代の人々が東国を目指す道は、北の足柄峠を越える道が主要なルートであった。 しかし中世以降になると、箱根峠を上り下りする道が主要な街道となり、幕府の重要な公道ともなった。 その為、公金1,400両余りもの巨費を投じ、竹敷きの道から石畳の道へと造り変えられていった。
現代人にとって歩きにくい凹凸のある石畳道では有るが、その出現は画期的な出来事であった。 石畳道では、草鞋の消耗は相当なものらしいが、それでも確実に人々を旅に誘い、旅人の足を軽やかにした。 こうして整備された道を、有名無名を問わず大勢の公用の役人、遊行の庶民、文人墨客等が行き来している。
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