甘酒茶屋を後に暫く県道732号線を歩き、再び旧道に入り、ここから白水坂、天ノ石坂などを上る。
この先は、これまでに登ってきた急坂に比べると、既にピークを過ぎたのか、道は随分と緩やかになる。
やがて「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」の碑が見えてくる。
ここからは元箱根に至る街道ではあるが、遊歩道の様に歩きやすい、よく整備された道に変わっていく。
芦ノ湖観光の人々が、一寸旧街道の雰囲気を味わおうと、この辺りまで上ってくるらしい。
やがて前方が明るく開け、木立の隙間から芦ノ湖が見え隠れすると、ここからは一気に権現坂を下る。
歩道橋で国道を横切り、そのまま芦ノ湖の湖岸に向かえば、逆さ富士の名所「賽の河原」に向かう。
街道は湖岸に沿って緩く曲がり階段を下りると、その前方には有名な箱根の杉並木が見えてくる。
途中には箱根の自然をこよなく愛したと言う英国の貿易商ケンペル・バーニーの碑が立っている。
更に続いてその先には、江戸から数えて24番目の一里塚跡も有る。
箱根の杉並木は、ここら辺りに良く残されている。
江戸幕府の命により川越藩松平家の手によるもので、行きかう旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたものだ。
似たようなところは日光街道にも有るが、東海道では唯一のもので国指定の史跡として保護されている。
昼なお暗き杉の並木ながら、夏の暑さ凌ぎ、冬の風雪防ぎには格好のもので有ったようだ。
ここを歩くと、空気の匂いと温度の違いが感じられるほどで、杉落ち葉で覆われた道は柔らかくて歩きやすい。
まるで峠歩きで疲れ果てた足腰を、優しく労わってくれているようだ。
第二次大戦中の伐採の危機を乗り越えた木々は、度重なる道路の拡張危機をも凌ぎ、樹齢360年余と言う。
街道には途切れ途切れながら今も400本以上が残されていて、樹高は30mにもなるそうだ。
箱根の関所
晴れていれば富士山を映す芦ノ湖を正面に据え、背後には屏風山が聳え立つ。
正に人が通るにはここしかないほどの狭小な平地に、通りを妨げるように箱根の関所は造られている。
全国の街道を整備した江戸幕府は、各地の主要な場所に53か所に余る関所を設けた。
中でもここ箱根の関所は、江戸の守りを担う関所として規模も大きく重要視されていた。
箱根の峠は、徳川将軍家の本拠地、江戸を守る要害としての役割を担っていた。
それは地勢の厳しさから「天下の険」と言われているが、これは単に上り下り八里の道のりの厳しさだけではない。
「関所を越える」と言う、高い壁の存在をも言い表していたのである。
取分け女達にとっての女改めは、煩わしく、恐ろしいことであったようだ。
渋墨塗りと言われる総黒塗りの建物は、幕府の威厳を表わしている。
周囲やここを通り抜けようとする旅人を威嚇するには十分で、これにより威圧し、緊張感を強いていたようだ。
取り調べ部屋には、火縄銃や弓矢などをこれ見よがしに並べ立てている。
今の建物は平成19(2007)年に復元されたもので、江戸後期の頃の様子を伝えるものだと言う。
当時の関所を体験するテーマパークのような施設である。
手形改め、女性の取り調べの様子、ここに詰める番所役人の生活ぶりなどが、人形を使って再現されている。
天下の険・箱根峠に設けられた関所は、「明け六つご開門、暮れ六つ閉まる」と言われている。
東海道を上り下りする旅人は、当然この間を縫って通り抜ける事になる。
関所の通行には手形の所持が必須だが、京に上る男や、江戸に下る女にはほとんどお調べは無かったそうだ。
その一方で「女人と武具は御証文無くしては通さず」と、とりわけ厳しさを極めたのが「入り鉄砲に出女」である。
大名達の子女が、江戸に軟禁状態の時代だけに、江戸を離れ国元に帰る女人の取り締まりは強化されていた。
手形には女達の身分や身元、行き先、旅の目的等から、身体的な特徴等、実に細やかな記載が求められていた。
この関所では、人見女(改め婆)がいて、意地悪なほどに、徹底的に調べ上げたと言う。
結い上げた髪を解きその中まで、また人相、身体的な特徴などを、手形と照らし合わせながら丹念に見比べた。
もし手形に不備が有れば、特徴が違っていれば、当然関所を通ることは出来ない。
そのため当時関所の手前には、新屋と言う町があって旅人はその茶店で関所通行の仕方を教わったと言う。
またその地は、手形の不備で通行不能になったとき、再発行までの間逗留するための旅籠町としても機能していた。
| ホーム | 東海道歩き旅 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|