旧東海道、現在の県道732号線は、道幅は左程広くはなく、曲がりくねって結構な勾配で登っている。
両側に全て歩道が整備されてはない道を、路線バスや送迎バス、乗用車などが絶え間なく上り下りしている。
その隙間を縫うように、観光客がそぞろ歩き、地元の人々が足早に行き交っている。
歩く者にとっては、結構危なっかしい道である。
ここら辺りが旧湯本茶屋村で、江戸から数えて22番目の一里塚がある。
「旧街道一里塚跡の碑」を過ぎ暫く進むと、県道から離れ右に下る古道に「旧街道入口」の案内板が立っている。
ここには江戸幕府が整備した、石を敷き詰めた旧街道が凡そ300m残されていて、国の史跡に指定されている。
小田原から箱根の関所に向かう登り道を総称して東坂と言うが、このような道は七カ所ほど残されていると言う。
旧東海道石畳道に入り込む。
山裾が右手の須雲川に落ち込む際を切り開いたように伸びる、2〜3メートルほどの幅の道である。
不揃いの石が表面の水平を保つように敷き詰められてはいるが、石の凹凸は否めない。
着地した時の足の裏に伝わる感触も悪く、平坦なアスファルトの道に慣れた身には、結構歩きにくい。
中には苔むし、角が取れ丸くなり滑りやすい石もあり、足元の注意は一時も怠れない。
当時としては、これがぬかるみを解消する最先端の舗装道であるが、古の旅人の苦労も偲ばれる古道であった。
箱根で最初に出会う石畳の道を通り、箱根観音・福寿院のところで再び県道に合流する。
その先には観音坂、葛原坂の急坂も待ち構えている。
これらは舗装された自動車路を歩く道ながら、その上り勾配は結構きつい。
それを上ると旧須雲川村である。
ここら辺りまで来るとさすがに周囲は観光地の喧噪は薄れ、長閑な里山の風情に変身を遂げている。
さらに街道を上ると、旧須雲川村の集落はずれに鎖雲禅寺がある。
兄を討たれた飯沼勝五郎と、父を殺された初花の夫婦は、箱根権現を篤く信仰していた。
その霊験によって共通の仇敵である滝口上野を見事打ち取ったと言う芝居「箱根霊験いざりの仇討」伝承の寺だ。
境内には初花堂や、勝五郎・初花夫婦の墓などがある。
箱根東坂
左に鎖雲寺を見て更に進み須雲川橋を渡ると、女転し坂の碑が立つ遊歩道の入り口が有る。
この坂は、前方に見える山を真っ直ぐに登る、当時はかなりの急坂であったらしい。
今では、歩行者用にはこの坂を迂回する自然探勝路が整備されている。
坂は箱根の難所の一つで、その昔馬に乗った婦人が落馬して、それが元で死んでしまったのが名の謂れだと言う。
そんな坂は今や草木が生い茂り歩くことは出来なくなっている。
女転し坂の自然探勝路に入り15分ほど歩いたところで、県道に合流した。
右手に箱根大天狗山神社の赤い鳥居が立っている。
車道も大きなカーブを繰り返しながらこの急坂を上っていて、それだけでも古の難儀は想像する事が出来る。
県道を横切り少し坂を登ると、そこから割石坂の始まりである。
仇討で有名な曽我兄弟が、ここで刀の切れ味を試すため大石を切り裂いたとの言い伝えが残された坂だ。
須雲川のせせらぎを聞き、野鳥のさえずりを聞きながら歩む自然探勝路として整備されている。
間の宿・畑宿までは凡1qの道のりである。
ここには江戸時代の石畳が、明治・大正時代に補修・整備されて所々に残されている。
木立の茂る山中を切り裂いて抜ける古道は、緑も美しく、時に小さな流れを木橋で渡る。
車の喧噪もここまでは届かず、聞こえるのは小鳥たちのさえずり位で、静かで清々しく雰囲気がとてもいい。
割石坂を上り更にその先の大沢坂を登る。
ここは森の中に続く寂しい道で、当時の旅人にとっては、何とも心細い道であったかは、想像に難くない。
そんな旅人の不安と不便を解消するために、こんな山中にも接待茶屋が設けられていた。
人々には湯茶を、荷馬には飼い葉を提供をしていたという。
そんな跡地を見て、更にそれを登り詰めればやがて間の宿・畑宿の集落である。
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