相模湾を見ながら

 

 東海道は、大磯城山公園の前で国道1号線とは一旦分かれ迂回する。

その先の大磯警察の辺りで再び合流すると、以後は暫くこの国道を歩くことになる。

道は海岸から少し遠ざかり、山側に近づくせいか、緩やかに上り、それが結構長く続いていく。

標高が若干上がったようで、そんな道の所々では、町並みの隙間から青く輝く太平洋・相模湾が望まれる。

 

相模湾

相模湾

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相模湾

相模湾

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相模湾

相模湾

相模湾

 

 二宮駅を過ぎた辺りで最高点を迎えた街道は、押切坂上の交差点辺りから下り始める。

ここで旧道は左に向かうが、押切橋を渡ってその先で再び国道と合流する。

左手には西湘バイパスの高架道路が併走し、その先の中村川は河口を広げながら太平洋に流れ出ている。

この橋を越えればいよいよ箱根の登りを控えた小田原の町だ。

 

相模湾

相模湾

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相模湾

相模湾

相模湾

 

 ここからは浅間神社入口に向け、またまたちょっとした上り坂になる。

そのサミットでは、行く手正面に太平洋の雄大な広がりを見ることが出来る。

途中の車坂は、太田道灌や源実朝などの詩に謡われた場所で、案内の木柱が立っている。

 

 その先150m程進んだ右側には「従是 大山道」と刻まれた、古めかしい石の道標が立っている。

上部には不動尊が乗せられた珍しい石柱で、天保5(1834)年の建立だという。

 

相模湾

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相模湾

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相模湾

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相模湾

相模湾

相模湾

 

当時もこのあたりからは、相模湾を見下ろす街道は美しい松並木の道が続いていたのであろう。

近戸神社の参道口を過ぎ、右手にJR国府津駅を見て、その先で森戸川に架かる親木橋を渡る。

右手はるか前方に望まれるのは、箱根の山塊であろう、濃い鈍色の重く沈んだ雲が覆う山影が認められる。

この辺りまで来ると、道路標識にも「箱根」の文字も見えるようになる。

 


 

酒匂川の渡し

 

 日本橋から79キロを示す道路標識を過ぎる辺りには、僅かながら松並木が残されている。

小八幡地区辺りに、一里塚と言うバス停があったが、実際の案内板は見落としてしまった。

ここら辺りの街道筋に、長楽寺、大見寺、法善寺などの寺が多いのは、小田原城下が近いせいであろうか。

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

東海道は、酒匂川に架かる酒匂橋を渡る。

その橋の袂に「酒匂川の渡し」と刻まれた、大きな石の碑が緑地の中に置かれて居る。

広重の東海道五十三次の小田原の図では、この酒匂川の渡しの様子が描かれている。

人足が肩車で人を運ぶ、また何人かの人足が蓮台を担ぎ、その上に人や籠をのせて渡る様子である。

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

酒匂川の渡し

 

当時川は、富士山の噴火の影響で大量の火山灰が川底にたまり、水深はなく、流れも幾筋にも分かれていた。

その為浅瀬は歩いて渡り、深みは舟で、あるいは人足渡しの世話になっていたようだ。

ただ、水量が少ない冬や春には、人足渡しはなく、土橋が架けられることもあったようだ。

 

仮ながらここに本格的な橋が架かるのは幕末の頃まで待つことになる。

更に今日の永代橋が架かるのは、昭和48年までの長い時間を要している。

 

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

 

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

 

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

新田義貞公首塚

 

酒匂川橋を渡り左手の旧道に入ると、住宅地の入り組んだ場所に「新田義貞公首塚」が有る。

建武の中興の立役者として転戦中、越前で討ち死にし、足利尊氏によりその首は京の都で晒されていた。

その姿を哀れに思い、その首を奪って東海道を下り、義貞の本国・上州新田に葬ろうとした家臣がいた。

 

宇都宮泰藤はその道中、酒匂川を前に病に倒れ、そこで止む無く葬ったのがこの地であったと言う。

自身もその病が元でこの地で死んでしまい、この地に葬られ小さな墓が残されることになる。

住宅地の中にひっそりと佇むこれらの墓に参る人は、少ないそうだ。

 

 

小田原の宿

 

『なにひとつ、取のこしたるものもなく神田の八丁堀の借家をたたみ・・・』

(「日本古典文学全集49 東海道中膝栗毛 昭和5012月 小学館」)

 

家財道具をたたき売り、僅かばかりの道具は、隣近所に譲り、酒屋と米屋の借金は踏み倒したという。

あの「東海道中膝栗毛」の主人公、のうらくものの弥次郎兵とその居候の喜多さんの旅立ちである。

借家のあった八丁堀を出た旅は、前泊が戸塚で、二泊目は小田原泊りのようである。

当時の旅人は一里半刻のペース(凡そ4キロを1時間)で、一日10里を目途に歩いたと言われている。

 

日本の道路元標である日本橋から、国道1号線なら83Km、昔風に言えば21里の位置である。

天下の険・箱根越えを控えた旅人は、十分な英気を養うため、この「小田原宿」を二泊目の宿にしたと言う。

しかし、ここまでを二日で踏破する事は、ずいぶんと強行で、かなりの健脚でないと無理なようだ。

実際に歩いてみても、ここまでは既に二泊し、三泊目にするのが精々である。

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

 一里塚跡、江戸見附跡を見て新宿交差点に来た。直進すれば小田原城だ。

戦国から近世を通じて、関東への入口に位置するとして重要視されていた城だ。

江戸時代には稲葉氏や大久保氏の居城となっている。

維新後に払い下げられたものの震災などで破壊された天守閣は、昭和35年に外観復元されている。

再建された天守の内部は博物館になり、周りは市民憩いの公園になっている。

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

 浜町を過ぎ国道と分かれここで左折し、100mほどの蹴上坂を上り、すぐに右折する。

名物のかまぼこを売る店が建ち並ぶ静かな通りに入って来たが、この辺りが嘗ての宿場町の中心的なところだ。 

本陣・脇本陣が共に4軒、旅篭は95軒もあり、町の人口も5,000人をはるかに超えていた。

中には飯盛り女や遊女などもいた(宿場の成立初期のころは城下町とのことでいなかったようだ)と言う。

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

そんな通りには、明治維新の折、東京に御幸される明治天皇が休憩された場所がある。

また「清水金左衛門本陣跡」「「片岡本陣跡」「久保田本陣跡」などが有り案内板が立っている。

しかし当時を彷彿させる建物などは何も残されてはいない。

また町の要所には、江戸期の旧町名と、その簡単な説明が刻み込まれた石柱も立てられている。

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

 「小田原宿なりわい交流館」は旧網問屋を再整備した建物で、市民や観光客の憩いの場として利用されている。

建物は小田原地方の典型的の商家の造りで、その最大の特徴は「出桁造り」と言う。

主屋より腕木を突出させ、そこに桁を乗せ屋根を被せ、軒天井を貼り、豪華に見せる視覚的な効果を狙っている。

当時はこうした造りの家屋は、農民には許されていなかったという。

 


 

弥次・喜多のういろう

 

街道の御幸の浜を過ぎ、箱根口の交差点まで来ると、その手前にお城のような建物が見えてきた。

有名な小田原の「ういろう」を売る、「ういろう」と言う店で有る。

普通「ういろう」と言えば名古屋や山口の食べるお菓子の「ういろう」を思い浮かべる事が多い。

ここの「ういろう」は、大陸から渡来した外郎家の作る中国伝来の「透頂香(とうちんこう)」と言う万能薬だ。

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

小田原の宿

小田原の宿

小田原の宿

 

外郎(ういろう)家で造るので「ういろう」と呼ばれ、650年続き二十五代に渡り作り続けられている。

先祖は薬をつくる傍ら、接待用に自ら菓子も考案したところ、こちらも評判を呼んだそうだ。

これが江戸時代の伝統を引き継ぐ「菓子のういろう」と言われるものである。

この店では薬とお菓子の両方の「ういろう」が売られているらしいが、生憎とこの日店は閉まっていた。


 

『ういろうを 餅かとうまくだまされて こは薬じやと苦いかほする』(弥次さん喜多さん)

 



 

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