馬入川に架かる橋を越え、馬入交差点で国道と離れ左の旧道に入り、平塚の町にやってきた。
丁度このあたりが、江戸から数えて15番目の馬入の一里塚があったところだ。
当時馬入川には渡し場が有り、周辺には川会所や高札場が設けられていたという。
ここは東海道の他八王子道や、江戸と直接につながった中原往還と言う脇街道等も通り、追分的な宿場であった。
左手200m程先にJR平塚駅を見通す賑やかな辻、フェスタロードにやって来た。
周りは銀行やオフィスビル、ホテル、商業施設や様々な店舗が立ち並ぶ町の中心的な繁華街である。
当時の戸塚宿の中心は、もう少し西に進んだ屋根の有る商店街が尽きた市民プラザの前あたりから始まる。
市民プラザのある辺りに、江戸見附跡の碑が立っている。そこには石垣に竹矢来を組んだ見附が再現されていた。
宿場町はここから上方見附跡まで凡そ1.1Km続いていた。
道幅は4間1尺(およそ7m)あり、そこに本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅篭の数は54軒あったそうだ。
人口も2,000人程度と言うから、さほど規模が大きな宿場町ではなかったようだ。
公園にある大楠は、小学校の校庭に植えられていたが、空襲で校舎が焼失したものの唯一焼け残ったと言う。
このように町は戦災でほとんど焼けてしまい、街道筋には当時の建物で現存するものは何もない。
当然本陣や脇本陣、高札場、問屋場の跡地には石碑と説明文だけが立てられていて、それで知るのみだ。
一旦分かれた旧道が、国道と再び合流する辺りに、上方見附跡の碑があるが、これも推測の地であるらしい。
高麗山の見える風景
左手に貨物駅を見て、花水川に架かる花水川を渡ればそこはもう大磯だ。
右手遠く曇り空に霞むは大山か、或いは遥か丹沢辺りであろう。川の源流域と思われる山並みが灰色に見えている。
やがて橋のすぐ向こうには広重も描いた高麓山(標高168m)が、こんもりと盛り上がった優美な姿で見えてくる。
広重の「平塚 繩手道」の図では正面に高麗山を置き、右手に荒々しく大山を描いている。
その間遠くに真白き富士の山を覗かせ、三山を対比して描いているが、その美しい光景は今も昔も変わらない。
大磯に向かう国道沿いに茅葺屋根の建物が一軒だけ取り残されるように建っていた。
昔の街道筋にはこんな民家が点在していたのであろう。
古いものはどんどん壊されていく中で、せめて何時までも生き残ってほしいものだ。
道縁に小さな祠が有った。
高麗寺村と大磯宿の境に立つ虚空蔵堂で、昔はここに高麗寺の寺領を示す大きな傍示杭が立てられていたと言う。
高麗寺は朝鮮半島の高句麗に由来する神社で、この付近には渡来したその一族が住みついていた。
ここには東照権現も併祀されていることから、門前では大名も下馬をして街道を進んだとされている。
現在この地には高麗山を背に、高来神社が鎮座している。
その先で左にカーブする国道とは別れ、化粧坂と呼ばれる松並木の残る旧道を緩やかに上っていく。
ここは当時の雰囲気が良く残された気持ちの良い道である。
坂の途中には虎御前(仇討ちで有名な曽我兄弟の兄・十郎の恋人)ゆかりの化粧井戸がある。
更に、一里塚跡、江戸見附跡などの案内看板が立てられている。
温暖な別荘地・大磯
化粧坂を下り、山陽本線を地下道で潜り、国道1号線に合流するあたりがかつての大磯宿の入り口だ。
その先の照ケ崎海岸入口辺りがその中心であったらしい。
ここは本陣が3軒、旅篭66軒あり、人口は3,000人余りと言い、人馬を差配する問屋場が置かれていた。
ここから四里先の小田原宿までのお定め賃金は、人足一人なら九拾文(荷は五貫まで)であった。
客一人と荷が五貫までの軽尻馬なら壱百弐拾四文、客一人と荷が弐拾貫までの乗掛なら壱百八拾三文である。
このように乗る人数から荷物の重さによる料金体系が、事細かに取り決められていたようだ。
明治18年にはこの町の海岸に、日本最初の海水浴場も開設されている。
当初は健康増進、病気療養には海水を浴びることが良いとされ、健康目的の利用で開かれた。
そんな海のある風景が、中国湖南省の洞庭湖のほとりにある「湘南」に似ていたらしい。
いつしかこの地を「湘南」と呼ぶようになり、その発祥がこの地でもある。
鴫立庵
「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
カギの手に曲がる街道を少し行くと、小さな川が流れ趣のある建物の「鴫立庵」がある。
木造平屋の伝統的技法を用いて造られた藁葺き屋根の建物で、町の有形文化財に指定されている。
平安時代の歌人西行がこの地でこの詩を詠んだことに因み、江戸時代に徘徊道場として結ばれた草庵である。
「鴫立庵」の先町役場を過ぎた辺りに上方見附が有り、宿場の出入り口を示す「御料榜示杭」がたっていた。
大磯を通り抜ける東海道を継承した国道1号線には、見事な松並木が良く残されている。
この辺りから国府津辺りまでの海岸は、古くから「こゆるぎの浜」と呼ばれる名勝の地であった。
しかし東海道の街道から、浜を見通す事は殆どなく、海辺を実感することもない。
暫く行くと右手は大磯城山公園で、ここから小田原まで四里の道のりが待っている。
街道の脇に伊藤博文の旧宅であった「滄浪閣」が残されている。
戦後はホテルの別館として利用され、その後は結婚式場や中華料理店として使われた時期もあったらしい。
建屋の前の広い駐車場は閑散として人気も無く、今は使われてはいないように見受けられる。
ここ大磯は、別荘の町として知られるところだ。
温暖な気候に恵まれたこの町には、明治になると伊藤博文など8人の歴代総理大臣が邸宅を構えている。
町外れには、吉田茂の旧邸も残されていて、公開されている。
政界のみならず、さらに各界名士たちの別荘や邸宅が立ち、多い時にはその数が150戸にも及んだと言う。
| ホーム | 東海道歩き旅 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|