「影取池の大蛇伝説」の残る影取町で国道と別れる。
遊行寺坂一里塚跡を見ながら遊行寺坂を緩く下ると街道筋に町並が戻ってくる。
東海道は、遊行寺の門前町でもある、6番目の宿場町・藤沢に入ってきた。
遊行寺は、丁度藤沢宿の入り口辺りに有り、時宗の総本山で正式には清浄光寺と言う。
広重の描く藤沢の絵にも、門前に架かる大鋸橋と共に描かれている。
藤沢宿はこの門前町としても発展を遂げており、ここ藤沢の歴史そのものともいえる名刹だそうだ。
広い境内には文化財や史跡も多いらしい。
藤沢橋の橋詰に小さな広場があり、そこに江の島道を示す古い道標が残されている。
街道はここが追分けで、大山参りの大山道や、弁財天参りの江の島道に分かれていた。
角柱の側面には「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と刻まれている。
江の島道を行く人全ての安寧と極楽を願うと同時に、ここには江の島の一の鳥居が立ち遥拝所となっていた。
宿場内の街道筋の電線は地中化されていて、地上の所々にトランスボックスが置かれている。
そこには、古い写真や絵図面、史料などがラッピングされているので、これらのサインを見て歩くのも楽しい。
ここは家数が919軒、人口4,000人余りで、本陣・脇本陣がともに一軒ずつ、旅篭が45軒あったと言う。
しかし今に残るものは何もなく、僅かにサインで知るのみである。
東海道の松並木
国道467号線と別れ、小田急線を越え、引地川を引地橋で渡り、さらに進むと街道は再び国道1号線に合流する。
ここら辺りまで来ると街道筋の所々に、見事な松並木が残されていて、神奈川県内には並木が多い事を知る。
車道を挟んだ片側や両側の歩道に、ある所では中央分離帯などに残されていたりする。
そこには松だけではなく花木などを植え、きれいな緑地帯として地元で管理されているところもある。
歴史を重ねた松の木だけに、見事な枝ぶりの巨木も多く、残されていることに何故かホッとする。
嘗ては道路を覆い尽くすように枝を広げる松は、道路拡張時に邪魔だとし、かなりの本数が切り倒されている。
無念にも松くい虫にやられ根元から切倒され、巨大な切株だけを残している物もある。
反面このように保護され、残されているところも或る。
こういった所では、後世に引き継ぐために、何本もの若木が補充されている所も或る。
また自然発芽したものなのか、まだ弱弱しい苗木のようなものを見かけることも或る。
いずれにしても、こうして連綿と続いていることが殊の外嬉しい。
江戸幕府はその基盤強化のため、各地の大名に街道の整備、並木の植栽を命じ、道幅にも注文を出していた。
道の幅はおよそ二間から四間(3.6m〜7.2mくらい)、そこにおよそ9尺の並木帯を設けるようにした。
並木帯には松や杉を植える事を推奨していた。
並木は遠くからも確認でき、特に雪深い地なら、道が見えなくても並木を伝えば迷うこともなく先に行けた。
並木は木陰をつくり夏の暑さから、冬の風雪から旅人を守る役目もあった。
更にしっかりと張った根で、道そのものが流されたり、崩れたりすることを防ぐ役割も大きかったと言う。
南湖の左富士
茅ヶ崎市に入ると、道路脇に「牡丹餅立場跡」の案内板が立っている。
立場と言うのは、宿場と宿場の間に設けられた旅人や飛脚などの休憩を目的とした施設のことだ。
この宿場や立場には、旅人が休憩する場所として「茶屋」が設けられ、名物などで旅人をもてなしていた。
当時ここでは牡丹餅が売られていたと言うが、残念ながら今日名物として伝える店は途絶えている。
第六天神社のところに「距 日本橋十五里二町六間」と書かれた真新しい木柱が立っていた。
この半端の距離にどういった意味があり建てられたものなのかは良く解らない。
千の川に架かる鳥井戸橋の袂に「南湖の左富士の碑」が立っている。
広重の描く五十三次の図では、このあたりから見た風景には左側に富士が描かれている。
東海道で左手に富士山が見えるのは、ここと吉原付近の二ヵ所しかないそうだ。
広重はこれまでにも「六郷の渡し」や「平塚」などで富士山を描き込んでいる。
しかし、五十三次図の全体では55点の絵の中に、富士山は7点ほどしか描かれてはいない。
これまでに過ぎて来た、権太坂や大坂などの峠でも富士を望むことが出来た。
当時なら武蔵、相模、伊豆、駿河と至る道中では、あらゆる所から見えたはずだが、些か少ないようにも感じる。
鳥井戸橋を渡ると右手に赤い鳥居が立っている。
鶴嶺神社の入り口で、その下から見事な松並木の参道が伸びている。
その長さは境内までの凡そ1キロにも及ぶそうだ。
旧相模川橋脚
日本橋から60キロ余り、国道脇に「国指定史跡 旧相模川橋脚」の石碑が立てられていた。
関東大震災の折に、この付近の液状化現象により、突然田畑の中からから姿を現した杭らしい。
その後の年代調査の結果から、鎌倉時代のものだと判明した。
史跡であると同時に、震災により現出したことから天然記念物の指定も受けている。
直径60Cm余りのヒノキの丸材が使われていて、年輪から1126〜1260年頃の間に切り出されたものと判明している。
2m間隔で三本からなる一列の橋脚が、10m間隔で四列配置されていて、発掘調査では10本確認されたと言う。
この事から当時の橋の規模は橋巾7〜9m、長さ40m余りと推測されているそうだ。
ここで見られるものはそのレプリカで、本物は劣化が進まないように隠されている。
これだけの丸太を何本も切り出して、運搬し、架橋工事の材料として使う事は、相当な難儀が伴ったであろう。
そんな苦労が偲ばれ資料である。
相変わらず国道1号線を歩き、やがて新湘南バイパスやその先の産業道路を越える。
東海道本線の向こうには、賑やかな町並みのビル群が見え始め、相模川に架かる馬入橋にさしかっかった。
『馬は水中に飛び入りて忽ち死すとぞ。故に馬入川といふ』(東海道名所図会)
かつて源頼朝が、橋の落成式に出席の帰途、馬が平家の亡霊に驚いたと伝えられる場所だ。
頼朝はその落馬が元で、翌月亡くなったと言う因縁の橋でもある。
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