品濃の一里塚

 

『武蔵・相模の国境 境木村といふ 右方に地蔵堂在り』

 

国境の境木地蔵堂を右に見て、「焼餅坂」を下り、その先で更に「品濃坂」の上りに取り掛かる。

このあたりは旧東海道の道幅を良く残す、尾根道のようだ。

 

しばらく上るとその先の方にこんもりとした森が見えてきた。

日本橋からは9番目の「品濃の一里塚」で、品濃一里塚公園の石柱が立っている。

塚は街道を挟んで東西に築かれていて、その西側の塚にはかつて「エノキ」が植えられていたらしい。

このように両側の塚がほぼ完全な形で残されているのは極めて珍しいと言う。


 

品濃の一里塚

品濃の一里塚

品濃の一里塚

 

品濃の一里塚

品濃の一里塚

品濃の一里塚

 

 江戸に幕府を開いた家康は、当初は軍事上の備えから伝馬制を発し街道の整備に着手した。

要所毎に宿場町を定め、そこに大名や貴人のための本陣・脇本陣を、又庶民のための旅籠・木賃宿を整備した。

道巾を整え、道筋に木陰を提供する松を植え、途中には間の宿や立場を定め、休憩の為の茶店などを設けた。

江戸日本橋を起点とした距離が判るように、一里(およそ4キロ)毎に五間四方の塚を築き一里塚とした。

それは街道を行き来する物資が多くなるにつれ、その荷駄賃銭の支払いを明確にする目的もあったようだ。

 

品濃の一里塚

品濃の一里塚

品濃の一里塚

 

品濃の一里塚

品濃の一里塚

品濃の一里塚

 

 一里塚は旅人にとっては格好の目印となり、その周囲には立場も設けられ、茶店が出来てきた。

塚の多くにはエノキが植えられている。

家康が「エエ木を植えろ」と下命したのを、家臣が「エノキを植えろ」と聞き違えたことによるものらしい。

「エノキ」は高さが20m以上にもなる落葉高木で、枝が多く、春小さな花が咲き果実をつける。

この食べられると言う甘い実は、街道を行く旅人の疲れいやしになっていたのかも知れない。

 

 

戸塚の宿

 

 切り通しの「品濃一里塚」を過ぎ、住宅街の道を行く。

良い雰囲気の旧街道が開け、目の前にJR東戸塚駅前の近代的高層ビル群が目に飛び込んでくる。

歩道橋で環状道路を越え、再び住宅街の道を行く。

国道1号線を横切り、赤関橋を渡り暫く旧道を歩いた後、再び国道に合流するとそこからは国道歩きとなる。

不動坂で国道を左にそれると、その先はJR戸塚駅に向かう緩やかな下り道だ。

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

 元舞橋で柏尾川の支流に沿って歩き、舞岡入口で五太夫橋を渡る。

元北条氏の家臣・石巻五太夫が、江戸に入る徳川家康を出迎えたのがこの橋で、ここにその名を遺した。

ここらあたりに江戸側の見附が有り、戸塚宿が始まる。

 

ひっそりとした街並みを抜け、国道に出てブリジストンの大きな工場を右に見ながら吉田大橋を渡る。

橋の手前に、広重が描く東海道五十三次の内、「戸塚宿」の絵の銘板があった。

そこには柏尾川に木橋が架かり、橋の袂に建つ講の定宿「こめや」が賑わう様子が描かれている。

丁度このあたりの風景を描いたものらしい。

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

 戸塚宿は、江戸からは10里半(およそ42キロ)、数えて5番目の宿だ。

昔は「一里半刻」と言って、凡そ4キロを1時間で歩くことを目安にしていた。

健脚ならここを最初の宿地に選ぶ旅人も多く、その為旅篭も75軒と街道の中では比較的多い宿場町であった。

又、かまくら道の追分でもあり当時は交通の要衝で、家数も613軒、人口は2,900人余りと賑わっていた。

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

戸塚の宿

戸塚の宿

戸塚の宿

 

街道はその先に進むと東海道本線が在り、何本もの線路が行き交う戸塚駅に行き当たる。

かつてここには、その線路を横切る、開かずの大踏切が有ったらしい。

電車の通過時には人車が溢れ、正月の箱根駅伝の走者さえ、ここでは踏切の開くのをジリジリとしながら待った。

そんな大踏切も、平成272015)年3月に閉鎖され、近代的な大デッキが東口と西口を繋ぎ線路を跨いでいる。

 

 

大坂を上り鉄砲宿へ

 

 『宿の右の松山の内に八幡宮あり。この境内の山に十塚と云塚一つあり』

 

八坂神社と冨塚八幡宮のある交差点を通り過ぎる。

この冨塚八幡宮は戸塚の総鎮守で、境内にある古墳には祭神の一人が葬られている。

そのことからこの地名が起こったとされる由緒ある場所である。

 

ここら辺りから道は少しカーブしながら、ゆるく上り始める。

「大坂」或いは「戸塚の坂」と呼ばれる坂の始まりだ。

当時この「大坂」は箱根に次ぐ難所として知られていて、坂は松並木の続く二つの起伏からなっていた。

一番坂の上りが1町余り(およそ110m)、二番坂の上りが30間あまり(およそ54m)であった。

登り切れば、その前方に富士山を望む絶景の地でもあったと言う。

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

今日の国道は上り始める戸塚町あたりの標高が13mほどで、吹上交差点辺りで最高点を迎える。

およそ1.7Kmの間に、標高で言えば、70m近くまで上っている。

坂は昭和に入って、頂上を削り、底を埋め、傾斜を緩くするなど、何度も改修工事が繰り返された。

結果、今日見るようななだらかに均された長い坂に変貌したのだと言う。

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

 吹上交差点の手前に「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑が立っている。

『仮名手本忠臣蔵』の演目にちなむ碑らしい。

 

その先に浅間神社があり、反対側には江戸から数えて11番目の原宿一里塚跡(吹上一里塚)がある。

当時は松が植えられていたらしいが、今はその姿を留めてはいない。

更にその先に進むと、途中に「鉄砲宿」と言うバス停があり、そこには大蛇伝説の説明板があった。

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

 『昔この辺りの長者が、蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付けかわいがっていた。

ところが長者が没落すると、大蛇は十分に餌が貰えなくなり、近くの池に身を隠すものの空腹には耐えかねていた。

仕方なく、池の畔を歩く人の影を食べて飢えをしのいでいたが、影を食べられ人はだんだん弱って行ってしまう。

 

困った村人は大蛇を退治しょうと、猟師にお願いするが、大蛇は鉄砲を見ると底に沈んでしまい埒があかない。

そこで村人は一計を案じ、鉄砲の上手い猟師に頼み、池で「おはん」と名を呼んで貰うことにした。

すると長者が餌を持ってきてくれたと思い、浮き上がり姿を現したところ撃ち殺されてしまった。

その後その猟師が住みついたところを、鉄砲宿と呼ぶようになった。』(説明文より)

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

大坂を上り鉄砲宿へ

 

その池は影取池と呼ばれていたが、今では埋め立てられ、そこに地名だけが残されている。

影取町で国道と別れ、夕方のラッシュが始まり、車の渋滞で混雑する遊行寺坂を緩やかに下っていく。

するとその先の右側に、時宗の総本山・清浄光寺(遊行寺)が見えてきて、やがて藤沢宿へと入っていく。

 




 

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