権太坂
神奈川の台町で標高20m程の最初の上り坂を経験した旅人には、続く先に手強い急坂が待ち構えている。
保土ヶ谷宿を出て暫くすると始まる、更に厳しい「権太坂」の登りである。
ここは70m(「標高が解るWeb地図」国土地理院)を越える高さまで登り、更に焼餅坂、品濃坂等を繰り返す。
岩崎ガードの辺りで国道と別れ、樹源寺の豊かな緑を右に見て進む。
しばらくは住宅やマンション、商店などが混在する町並を行く、僅かな上り勾配の道である。
元町ガードを越え、100mほど先で右折すると権太坂の入り口で、そこには見るからの急坂が待っている。
横浜横須賀道路を潜る辺りから道は急勾配にと転じて行き、そんな坂の途中に「権太坂改修記念碑」がある。
近くに掲示されていた昭和初期の古い写真を見ると、当時の道幅はざっと3m位である。
山裾を切り通しただけの未舗装道がかなりの勾配で登っていて、雨でも降れば相当な難路になったであろう。
当時は一番坂、二番坂と言われる坂が連なっていたらしい。
それらは後に、かなり緩やかに改修され、その工事の記念に建てられたこの碑には昭和30年と刻まれていた。
その先に坂の名前の由来を書いた案内板が立てられていた。
それによると昔通り掛かった旅人が、この土地の老人に坂の名前を尋ねたと言う。
耳の遠い老人は自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えた。
また名前の由来はもう一説あるらしい。
代官の命令で、権左衛門と言う人がこの道を切り開く作業をしたと言う。
そのことから何時しか坂の名前が転化して、「権太坂」と呼ばれるようになったとか。
「あなたはどちらの説を信じますか?」と、地元の小学生は案内サインで問いかけている。
団地や住宅の立ち並ぶ道の坂を登っていると、突然左側の眺望が開け、市中心部の高層ビル群が見えてきた。
晴れていればここから、富士山を望むことが出来るそうだが、あいにくと今日は無理なようだ。
学校などを見ながら、喘ぎ、ゆっくりとした足取りで、かなり登って来た。
女子高生であろうか、話し声が近づいたと思うと、間もなく直ぐ横を実に軽やかな足取りで追い抜いて行った。
二人並んで短いスカートの裾をヒラヒラさせながら、急坂を厭う事も無く、朗らかな話し声だけを残っていった。
元町ガード辺りの標高は20m程で、横横道路を越えた県立高校まで来るとそれは50mほどとなる。
この間距離にすると500m余りであるからこの登りは結構きつい。
この先道は更に72mまで上るが、その境木小学校前までは、距離にして1キロ程だから、勾配は随分と緩くなる。
ここまで来れば頂上まではあと少しの辛抱だ。
武蔵の国境と地蔵尊
境木中学校前のバス停で、その鉄筋の校舎に突き当り旧街道は右に曲がる。
ここを左に160mほど取れば、街道で行倒れた人馬を葬った跡に、供養の投げ込み塚の碑が立っているらしい。
旧街道の権太坂もここまで来ると上りもあと僅かで、ほぼ平坦に見える道を暫く進む。
やがてその先に、地元の信仰が厚いと言う地蔵尊が鎮座する森が見えてくる。
お地蔵さんは東海道が整備されて間もないころに祀られたと言い、そこにはこんな面白い伝説も残されている。
『昔、鎌倉・腰越浜に打ち上げられたお地蔵さんが、地元の漁師の夢の中に出て頼んだそうだ。
「江戸に連れて行ってほしい。もし途中動けなくなったらそこに置いて行けばいい。」と。
漁師達はそんなお地蔵さんの願いを叶えようと牛車に乗せて運んだと言う。
ところがどういう訳か、この地に差し掛かると動かなくなり、困り果てた漁師は置き去りにして帰ったそうだ。
地元境木の村人達は困り果て、どうするべきか悩んでいると、今度は村人の夢枕に立ち、懇願されたと言う。
「粗末なものでいいからお堂を建ててくれ」と。そこで村人達はここにお堂を造り、お地蔵様をお祀りした。
夢のお告げの通り村にはお参りの人々が大勢押し掛けて、名物のボタ餅を売る店も出来大層賑やかになった。』
権太坂の難儀な峠道を行き来する旅人は、境木の地蔵尊に、旅の無病息災、安全を祈願したという。
その後、ここ境木の立場で売られていた名物の「牡丹餅」や「焼餅」で、お茶を飲みながら休憩した。
富士山を望む急坂に沢山の茶屋があり、しばし体を休める旅人等の姿は、幾多の浮世絵にも描かれている。
立場と言うのは宿場と宿場の間に、馬子や人足などの休息のために設けられた場所である。
周囲は緑濃い森のようなところで、標高で言えば72mほどのサミット、そこが武蔵の国と相模の国の境である。
嘗てここには地名の謂れとなった、国の境を示す木製の傍示杭(ぼうじぐい)立てられていた。
今では「武蔵国境の木」と書かれた角柱のモニュメントがその代役を務めている。
東海道最初の難所に向かう保土ヶ谷宿から、ここ境木まではおよそ一里という。
その半分程は権太坂の厳しい上り道で、更に先の戸塚宿までは、凡そ一里九町と言う下りの坂道が続く。
富士山や江戸湾を望む境木の峠は名所として知られ、茶店では名物の「牡丹餅」や「焼餅」が売られていた。
そのことから、この先の下り道をいつの頃からか「焼餅坂」(別名「牡丹餅坂」)と呼ぶようになったそうだ。
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