旧帷子橋跡
嘗ては松並木が続いていた松原商店街から、国道16号線、通称八王子街道を越え右手に橘樹神社をみて帷子川を渡る。
この辺りが、保土ヶ谷宿の江戸側の見附が有った場所らしい。
その先で相鉄の天王町駅を避けるように迂回しながら高架の下をくぐり、一旦広い道に出ると、そこに小公園が有る。
戦後、川の流域変更や、鉄道の高架化などで消滅した川の跡がこの小公園だと言い、その橋の模型が残されている。
この街道に掛かっていた旧橋は、安藤広重の「保土ヶ谷宿」でも新町橋として描かれている。
また、歌や俳句などにも詠まれ、当時は保土ヶ谷の代表的な景観であったと言う。
保土ヶ谷宿
広い県道を暫く歩き、JRの保土ヶ谷駅前辺りで、駅西口商店街の通りに入ってきた。
何となく旧道の懐かしい雰囲気が感じられる通りである。
保土ヶ谷宿は、日本橋から歩き続ける事8里9丁(凡そ32キロ)の距離にあり、そろそろ疲れを感じ始める頃である。
この先には難所の権太坂が控えている事などから、当時の旅人は少し早いが投宿する者も多かったという。
ここには本陣1軒、脇本陣3軒、旅篭67軒が軒を連ねていた。
保土ヶ谷税務署の近くに助郷会所跡、問屋場跡、高札場跡の標柱が立っている。
問屋場とは公儀御用の書状や荷物、人足や馬の手配、大名の宿泊の世話などを担う場所だ。
宿場の中では最も重要な施設らしく、主にその町の有力者がその任に当たったと言う。
また宿場で用意された人馬が足りない場合の応援動員が助郷と言われるもので、それには周辺の村が指定されていた。
その対応を担うのが助郷会所で、江戸の中頃にはこれらは制度化されていた。
税務署の先で交差する道が「かなざわかまくら道」、通称「金沢横丁」で、金沢・浦賀往還への出入り口に当たる所だ。
これらの道が円海山、杉田、富岡等に至る枝道が有るため、その参拝や観光のためここに古い道標が四基立てられたている。
右から二番目が立てられた年代が1600年代と最も古く、そこには「かなさわ かまくら道」の文字が刻まれている。
また左端のものは一番新しく、1800年代の建立で「富岡山芋大明神の道」と刻まれている。
左から二番目のものには「杉田道」の道標で、句も刻まれていて、これは極めて珍しいものだそうだ。
その横に「程ヶ谷宿 番所」と書かれた木札を掲げ、軒下に「宿場通り」の暖簾を下げる施設が有った。
ここは宿場を散策する人々の案内や、トイレを提供する施設である。
地元のボランティアの人たちが交代で数人詰めていて、その人たちの交流の場でもあると言う。
ここでは、思い思いにお菓子や果物、お弁当を持ち込んで、終日話の花を咲かせるのだそうだ。
施設内には、宿場の記念スタンプや、案内のマップも用意し、多くの人の利用を待っているという。
しかし、通りからは少し入り込んだ場所にあり、中々気付かれず利用者が少ないのが悩みの種だともいう。
再び旧街道に戻り、東海道本線の踏切を越えると、その先で国道1号線に突き当り、街道はここで直角に右に曲がる。
曲尺手とも呼ばれるもので、敵の侵入に備えるためあえて鉤の手状に道を折り曲げたものだ。
こういった遺構は、注意してみていると結構気付くほど、いたるところに残されている。
丁度その角が、保土ヶ谷本陣跡である。
本陣は幕府の役人や身分の高い侍、公家などが泊まる宿泊施設で、その土地の最も有力な名主や庄屋が務めている。
門や座敷を構えたりする高い格式が許される半面、制約も多く、また施設の運営経費が嵩むなどしたらしい。
いわば名誉職のようなもので、決しておいしい役目では無かったようだ。
この刈部家も代々小田原北条氏家臣の家柄だそうだ。
本陣が混雑した際、その代役をなすのが脇本陣である。
この宿場には藤屋・水屋・大金子屋の三軒があり、消防署のあるあたりが跡地らしいが何れも昔の建物は残っていない。
現在に残る旅篭・大金子屋の当時の雰囲気を残す建物は、明治初期に造られた家だそうだ。
街道の松並木
左から今井川が接するあたりに、江戸から数えて8番目と言う、一里塚が築かれている。
文献によると当時の塚は、五間(約9m)四方もの大きさをし、遠くからも目立つ存在で有ったようだ。
その先には上方見附跡の石垣が有るが、何れも小さく復元されたものだ。
見附とは宿場の出入り口のことで、東が江戸見附、西が上方見附と呼ばれ、それに挟まれたところが宿内である。
見附は木戸ともよばれ、番所が置かれていた。
多くは竹矢来を廻らしそこに門を築いたものであったが、中には立派な石垣を築いたものもあったようだ。
この通りには復元された松並木などもあり、そんな道が300mあまり続いている。
当時はこの辺りから国境の境木まで、3キロにも及ぶ松並木が続いていたと言う。
松並木は旅人に取って、夏は暑さ除けの日陰を提供し、冬は風雪除けとなり、道中の一寸した休憩場所であった。
また、根を張らすことにより道の土が流出しない地固めの役目や、遠くからでも道の存在を示す導としての目的もあった。
このように、実に多くの機能が期待されていただけに保護には官民挙げて努めてきたと言う。
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