神奈川宿
生麦のキリン横浜ビアビレッジの前で、第一京浜国道(国道15号線)に出る。
右側に東海道本線と京急線の線路があり、電車が頻繁に行き交っている。
その北側には国道1号線も併走しているはずだ。
左は神奈川1号横羽線の高架が延びていて、正に日本の動脈を感じる通りである。
途中子安辺りの道端で、「西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと」と書かれた看板を見つけた。
それによるとこの周辺地域では、横浜の開港に伴い外国人が多く住まうようになった。
彼らは自宅の菜園でキャベツ、トマト、セロリ、カリフラワーなどを作り出した。
横浜と東京の中間に位置し、情報の行き交うこの地では、消費地も近く野菜の出荷も容易であった。
又、地質が栽培に適していたことなどもあり、種を譲り受けた近隣農家の間に栽培が一気に広がって行った。
その結果、それらを原料にしたトマトケチャップも造られるようになったのだそうだ。
文明開化に翻弄され一大生産地となった農地は、いつしか近代化の波に押し流されてしまう。
気が付けば、周りにはビルやマンションが林立し、埋め立てられた新地は工業地帯となり工場が立地した。
それらの利便のために鉄道や幹線道、高速道が縦横に走り、結果町は大きく変貌した。
京急の神奈川新町駅を過ぎ、神奈川公園のところで国道を右に外れ、宮前商店街の通に入ってきた。
どうやらこの辺りが神奈川宿の入口らしく、神奈川湊の荷捌場も近くに有った。
宿内の人口は5,700人余りを数え、戸数も1,300軒を超え、その内本陣は2軒、旅篭が58軒もあったと言う。
ここは幕末から維新にかけて、国際政治の舞台としても脚光を浴びたところだ。
宿場に隣接した神奈川湊が開港し、周辺の社寺が各国の領事館や公館・宿舎として使われるようになった。
外国の侵攻に備えるための関門、台場も設けられたので、街道沿いにはそんな遺跡がたくさん残されている。
青木橋で京急とJR線、国道1号線を越え、アメリカ領事館跡の本覚寺を見て坂道の続く台町に入ってきた。
上り始めた坂の両側は、今では新しいビルや高層マンションばかりである。
その途中には、門前に日本橋から数えて七つ目にあたる旧一里塚が置かれていたと言う大綱金刀比羅神社が有る。
赤い鳥居の目立つ神社には、その痕跡はどこにも見当たらない。
台町の茶屋
『金川の台に来る。爰(ここ)は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干付きの廊下梯などわたして、
浪うちぎわの景色いたってよし』十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」の台町を紹介するくだりである。
『お休みなさいやアせ。奥がひろふございやす』と、店先で客を呼び込む娘を、喜多八が茶化す。
『おくがひろいはづだ。安房上総までつゝいている』
(日本古典文学全集49「東海道中膝栗毛」昭和50年12月小学館)
ここまでの旧東海道の道のりは、かつての海岸線近くを行く高低差の少ない比較的楽な道のりであった。
ここに入り宿町の中ほどで道がカギ状に折れ曲がると、そのあたりからは急な上り坂が始まる。
日本橋を七つ立ちし、七里(28qほど)近くを歩き続けて来た先の急坂で、最初の試練ともいえる坂である。
この台地の下は碧い海が広がる景勝の地であった。
素晴らしい眺望が開けていて、旅人はここで足を止め建ち並ぶ茶店でしばしの休息をとったと言う。
茶店の欄干からは、釣り糸を垂らし魚釣りに興じた客もいたそうだ。
坂道には一里塚であろうか、広重の描く「東海道五十三次 神奈川台之景」にも大きな木が見える。
坂の途中に広重の「東海道五十三次」に、旅篭「さくらや」として描かれた老舗の割烹店が残されている。
かつてこの宿場には1,300軒もの料亭が有ったと言われている。
しかし今では、現存するのは広重の絵にも描かれた店を今日に引き継いだこの「田中屋」だけである。
明治維新には勝海舟の紹介で坂本龍馬亡き後、妻の「おりょう」が働いていたと言う。
当時としては珍しく外国語が話せることや、まっすぐな性格から客の評判も良く、重宝されたらしい。
『台より向かう軽井沢と云ふ地まで、すべて神奈川駅と云へり』
そんな古の面影が何もなくなってしまった坂を上り切ると上台橋の陸橋で、ここら辺りが神奈川宿の端となる。
橋の上から下を見れば車が激しく行きかう幹線道路が通っている。
南に目をやれば横浜駅西口の高層ビル群が遠望できる。
洪福寺松原商店街
南軽井沢は、西口ランプのところで首都高速を越えた辺りである。
この近くにある「軽井沢公園」では、軽井沢の住人であろうか、お年寄りたちが何かゲームを楽しんでいた。
横浜駅西口に近いこの辺りは、住宅の密集地である。
そんな道を行くと、途中右手に「浅間神社」があり、その鳥居を見て先に進むと、追分が有った。
東海道から分かれ、町田から八王子へと続く道で、かつては「絹の道」とも呼ばれていた道だそうだ。
そこを過ぎると、通りの先に道路を横切るアーチが有り、カラフルに賑やかに飾り付けた商店街が見えて来た。
空中にピンクのフラッグが交差し、その飾り付けが妙になまめかししい、洪福寺松原商店街である。
ハマのアメ横とか、横浜の三大商店街の一つと言われる地元では有名な商店街らしい。
商店街は、多くの人でで賑わっていた。
客を呼び込む店員の声が飛び交い、それに値踏み交渉の客の声が重なり、随分な活気が感じられる。
日用品か食料品を扱う店であろうか、ところによっては黒山の人だかり状態だ。
さしずめ下町の庶民のための商店街と言った雰囲気で、そこは平日のせいか、比較的年配の客が中心のようだ。
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