六郷の渡しと川崎宿
川崎は長十郎梨の発祥の地と言い、かつて六郷川沿いには梨畑が続いていた。
江戸時代に始まり、明治に入りより盛んになったもので、病害虫に強く甘い新種がこの地の大師河原村で生まれた。
発見者の屋号を取って「長十郎梨」と名付けられた梨は、瞬く間に全国に広がったと言う。
旧東海道はその六郷川を渡ると橋のたもとで右折し、町中を道なりに突き抜けていく。
当時は六郷橋のもう少し下流に渡し場があり、それを渡れば川崎大師の門前町で大いに賑わったと言う。
又江戸に下る旅人は渡し待ちを、江戸を七つ立ちの旅人は、凡そ4里を歩いた後の休憩の場所でもあった。
東海道二番目の宿・川崎は、久根崎、新宿、砂子、小土呂の四町で構成されていたそうだ。
本陣2軒、旅篭72軒、当時の宿内の人口2,500人ほどの規模であった。
通りには「旧東海道」と書かれた石柱や、田中本陣跡、中の本陣跡、問屋場跡を示す案内板が立てられている。
しかし、それを見落としてしまえばこれを旧道と知るすべはないほど古いものは何も残されていない。
飲食店や居酒屋、商店や事務所が並び、その隙間を埋めるように似た様なマンションが幾つも建っている。
人や車の行き来が多い通りで、これだけ繁華な町に発展しているのだから当然と言えば当然である。
通りの中ほどに平成25年に開館した「かわさき宿交流館」と言う看板を掲げた場所が有った。
休憩がてら・・と思ったが、あいにくとこの日は休館日とかでガラス戸が固く閉じられていた。
ここはお休み所や休憩スペースを併設した、川崎宿の歴史を絵図や模型、映像などで今に伝える施設だと言う。
市場から鶴見へ
『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』
元禄7年5月に江戸を発ち、古里伊賀へ帰途の途中に、川崎の茶店まで見送りに来た弟子と共に詠んだ句だ。
芭蕉はその年の10月に51歳の生涯を閉じているので、本当の別れとなった曰わくの句である。
宿場町当時の、そんな地名だけが残る交差点を越え進むと、京急の八丁畷駅の手前に芭蕉の句碑が立っていた。
かつて八丁畷は「両方 松並木道」と言われた街道であるが、今日その面影はどこにも見いだせない。
関東圏のベッドタウンらしく、駅前には大勢の人が行き交え、駅を出入りしている。
そんな京急の八丁畷駅前の踏切で線路を越え、鶴見の町中に入ってきた。
少し行くと日本橋から数え5番目の市場の一里塚跡があり、その奥に稲荷社が祭られている。
境内に「いちばゝし」と彫られた石柱が残されている。
かつてこの先の川に掛けられていた市場橋の橋柱を記念に残したものだと言う。
そこから300mほどで鶴見川を渡る。
橋を渡ると左角に、「旧東海道旧鶴見橋」の石柱が建っている。嘗てここには長さ26間の鶴見橋が架かっていた。
橋の横には「鶴見橋関門旧跡の碑」と書かれた石碑と説明板も建っている。
それによると横浜港の開港当初は、浪人達の侵入を畏れた神奈川奉行がここで警備を行っていたと言う。
ここに街道幅と同じ4間(約7m)の黒渋で塗られた関門を設けて警備をしていたその跡だ。
名物「よねまんじゅう(米饅頭)」
鶴見東口駅前通りでJRの駅を右に見て、その先で京急線のガードを潜り京急鶴見駅の東口に出てきた。
ここら辺りの街道筋では、当時の様子を窺い知る古いモノは何も残されていない。
しかし旧街道沿いには様々なサインが立てられているので、それにより当時を思い浮かべることは出来る。
旧街道は暫くその前から線路と並走するように繁華街をすすみ、生麦へと向かう。
鶴見から生麦は、間の宿として賑わった立場で、ここでは名物「よねまんじゅう(米饅頭)」が知られている。
民謡『お江戸日本橋』の2番の歌詞で、「鶴と亀とのよねまんじゅう」と唄われているほどだ。
江戸初期には浅草門前の名物お菓子として、中期にはここ鶴見でも、何軒もの店が軒を並べ売るようになった。
これが人気を博し「初旅のまず鶴見から喰いはじめ」と言われるなど、東海道での名物第一号とされた。
現在は神奈川県の名産百選にも選ばれている。
そんな伝統を引き継ぐ店が、京急駅前近くに店を構える創業90年の「お菓子司・清月」である。
ごく薄い口溶けの良い羽二重餅で餡を包み、小さな俵型に丸め片栗粉を塗した和菓子である。
この店には、甘すぎず風味の良い、白あん、こしあん、うめあんの三種類が揃っている。
大きさも手頃で、一口二口で簡単に頂くことが出来る。
生麦 魚河岸通り
再び旧道に戻り下野谷町で第一京浜国道15号線を横切る。
国道とは江戸日本橋を出て以来、付かず離れずの関係が続いている。
少し旧道らしい雰囲気も感じられる通りに入ると、その先でJR鶴見線の高架を潜るが、右手高架下が国道駅だ。
入口周辺には自転車が乱雑に置かれ、この雑然とした雰囲気は、懐かし昭和の香りがプンプンとする。
生麦魚河岸通りに入ってきたが、時間的な事もあってか、何となく閉めている店が多いようにも感じられる。
ここは魚など魚介類を扱う店が犇めく通りで、すし屋や料理屋等プロが通う店が多いが、一般の小売りもしてくれる
店先を覗きながら歩き、中ほどの稲荷社で休憩をしていると、近所の男性が近づいてきて、色々話しかけてきた。
「この石が一番古い」と言って石仏の建つ台石を指さして、「まだ生麦村だから」と。
そこに記された名前を読みながら、「ここらあたりは同じ苗字ばかりだから、うっかり悪口も言えん」と言う。
見れば確かに同じ姓が並んでいる。
「昔はすぐそこまで海で松並木も続いていて漁師が多く魚を獲っていた」と、昔を語って聞かせてくれる。
「江戸前の魚で、景気が良かったのでは?」と水を向けてみる。
「いや、採れるのは貝ばっか・・、だから佃煮屋が多かった。それを目当ての醤油や生姜の店もあった」とか。
「それじゃあの魚屋は・・・」と聞くと、「元々はヤミ市だ」と言う。
この辺りの街道は、雨でも降ろうものならぬかるんで、どうにも歩けたものではなかったらしい。
「そんな時大名が通ると、植えてある麦を刈り取ってぬかるむ道に敷いた」のだそうだ。
それが生麦の地名の起こりとも教えてくれた。
魚河岸通りを後に、さらに先に進み生麦ICに向かう広い通りを越えればキリンビールの横浜工場が見えてくる。
明治初年、米人・コプランドが横浜山手天沼の地で日本最初の麦酒醸造所を開設した。
彼は技術者としては一流でも、経営のセンスには劣り、この醸造事業は長続きせず、撤退することになる。
その事業を承継したのがジャパン・ブルワリーで、これが後の麒麟麦酒の前身で、引き継がれていく。
その後紆余曲折を経て、ここにビール工場が出来るのは昭和元年の事で、それ以来の歴史を秘めたのがこの工場だ。
近年になってリニューアルされ生まれ変わった最新の工場は、一般にも公開され見学することが出来る。
周囲は横浜環状北線の工事で延々と塀が続き、この近くにあったはずの「生麦事件の記念碑」が見付けられない。
ここは薩摩藩の行列を横切ったイギリス人三人が、藩士により殺傷された事件の現場である。
道はほどなく国道15号線に合流し、神奈川宿を目指すことになる。
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