品川宿
高輪の大木戸を抜ければご府外で、いよいよ江戸ともお別れ、その先には京への長い過酷な道のりが待っている。
忠臣蔵で知られる赤穂義士の墓のある泉岳寺を右手に見て、さらに進めば左手が品川の駅である。
近年新幹線の駅が開業し、駅周辺では再開発が進み高層ビルが林立している。
一昔も二昔も前の高輪プリンスホテルの記憶しかない身には、まるで別世界を見るようだ。
八ツ山橋を越え、山手線、東海道新幹線、京急線を越えれば、日本橋からはおよそ2里の品川宿である。
東海道の玄関口、最初の宿場として栄えた宿は、この八ツ山が入り口である。
ここから目黒川までの間が徒歩新宿・北品川宿、更に青物横丁・鮫洲の辺りまでが南品川宿だ。
街道一の宿場らしく、全長2.4キロにも及ぶ大宿場町を形成していた。
本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭93軒、家屋1,600軒、人口7,000人の規模を誇っていた。
江戸の近郊と言うことも有り、飯盛り女も多く江戸中期には500人余りを抱えていたという。
当時の人々は、旅立つ人を見送るのも、江戸に入る人を出迎えるのもこの宿であった。
付近には桜の御殿山、モミジの海晏寺、品川神社や荏原神社、品川寺などの社寺も多い。
江戸近郷の遊興地として飯盛り女の多い事も道理で、又出会いと別れの場としても相当な賑わいを見せていた。
ここには当時を彷彿させる古い建物は殆ど残されてはいない。
問答河岸跡の碑、幕末の相模屋跡、本陣跡等が有り、往時を偲ばせる松の木も植えられている位だ。
それでも今日の通りは、宿内らしく電線が地中化されて、その道幅はほぼ当時とは変わらないそうだ。
街道筋にはビッチリと隙間もなく店舗が軒を連ね、人や車の行き来が多い活気あふれる商店街になっている。
泪橋(なみだばし)
北品川宿を抜け、南品川宿との境を流れる目黒川に架かる品川橋は、江戸時代に境橋と呼ばれていた。
当時この辺りでは、農民が自作の野菜や山菜などの青物を持ち寄って売り捌いていたと言う。
それが青物横丁と言う地名の起こりである。ここから更に進むと鮫洲の商店街だ。
その先で立合川が海に注ぐ河口近くに架かる、町中の何の変哲もないごく普通の橋・浜川橋を渡る。
江戸時代、罪を犯し処刑される罪人は、身体を縛められ、裸馬に乗せられてこの道を引き回されてきた。
ご府内から刑場まで送られる罪人に、家族や知人が手を差し伸べる術もなく、後に続き密かに見送った道だ。
しかしそんな切ない見送りも許されるのはこの橋までで、ここでは誰もが永久の別れに涙を流したと言う。
そんなことからいつしかこの橋を「泪橋」(涙橋)と呼ぶようになった。
橋を渡れば左手には、しながわ区民公園があり、その向こうには大井競馬場だ。
そこから右を見れば京浜本線の高架が、また車の往来の激しい第一京浜国道が並走しているのが見える。
周りは大小のマンション、飲食店、商店、オフィスなどが混在する今では賑やかな活気ある道だ。
鈴ヶ森の刑場
その先の宿場の南入口近く、国道15号線と合流する辺りに、木立が生い茂る小さな森が見えてくる。
引き回された罪人の行き着く先で、慶安4(1651)年に作られたお仕置き場・鈴ヶ森の刑場・大経寺の森だ。
寺は処刑された者を供養するために建てられたもので、刑場と共にその跡は史跡として整備し残されている。
周りは鬱蒼とし不気味な静寂に包まれているわけでは無く、幹線道路が近いので町の喧噪も聞こえている。
当時ここは、「夜みち つつしむべき所也」と言われた場所である。
いかにも寂しく、おどろおどろしい所で有ったようで、今でも何故か陰鬱を感じる場所である。
国道の拡幅で当時の姿を留めないと言う敷地内であるが、説明を読めば背筋も何とはなく寒くなる。
墓標や供養碑、祠・石仏、石柱、首洗い井戸、供花台、「火炙台」や「磔台」に使われた石などなど・・・。
それらが秩序無く、無造作に置かれていて、それがかえって不気味な雰囲気を醸し出している。
お仕置き場、鈴ヶ森の刑場が人通りの多い街道沿いに作られたのは、刑を見せしめにするためだと言う。
当時町中では浪人などによる犯罪が増加傾向にあり、その抑止を狙ったものだという。
刑場での処刑は、およそ220年の間続き、明治に入り廃止された。
その間10万とも、20万人とも言われる処刑が行われたが、現在これを証明する記録は残されていないそうだ。
由井正雪の乱で捕らえられた槍の達人丸橋忠弥は、この地で磔にされた最初の咎人で有った。
そのほかにも天一坊、白井権八、八百屋お七など、映画や歌、芝居などで馴染みの者が処刑されている。
中でも哀れを誘うのは、江戸本郷で加賀藩御用達の八百屋の箱入り娘・お七である。
天和の大火で焼け出された一家は、お寺に身を寄せ、そこでお七は美男の僧に出会い一目惚れしてしまう。
しばらくして家は再建され、戻ったものの「もう一度会いたい」と言うお七の想いは募るばかりであった。
思い焦がれた挙げ句、家が焼ければもう一度寺で会うことが出来ると、ついには自宅に火をつけてしまった。
幸い火事は大火に至らず、早々に消し止められたが、16歳のお七は火付けの罪で捕らえられた。
当時火付けは、その結果の大小を問わず大罪で、市中を引回され、この地に送られ火炙りの極刑に処せられた。
悲嘆にくれる両親は表立った供養も出来ず、位牌と想い出の振袖を手元に置いて密かに弔っていた。
その後縁あって「誕生寺」の第15世通誉上人と出会い、それらを渡し、お七の供養を託す事になる。
持ち帰った上人は丁重に供養し、後々に伝え残したと言い、振袖は同寺の宝物館で今も大切に保管されている。
寺は岡山県久米南町に有り、法然上人誕生の地に、熊谷次郎直実(出家して蓮生坊)が建立したものである。
六郷の渡し
鈴ヶ森の刑場跡を見て、京急線の大森海岸駅の手前で国道15号線、所謂第一京浜国道に出てきた。
当時海岸線はこの国道近辺まで来ていたらしく、大森海水浴場は明治24年八幡海岸に開設されたのが初だ。
明治34年に出来た大森海岸駅(当時の駅名は違っていたようだが)は、文字通り海岸に面した駅であった。
その後、平和島の埋め立てが始まり、海岸線が後退した今ではこの辺りから海を見ることは出来ない。
旧東海道を拡張し京浜国道を建設する工事は、大正7年に始まった。
当時人家や商店が密集していた旧街道筋は、拡張が困難で新道はそれを避け、その西側に造られた。
平和島口でその新道を離れ、旧態のまま残された三原の通りに入ってきた。
旧字名の南原、中原、北原を総称し三原と言われる通りを、美称して美原と呼ぶようになった。
ここは往時の街道の幅員が良く残された通りだと説明板に書かれている。
戦前には映画館、芝居小屋、寄席などが建ち並ぶ活気あふれる繁華街であったようだ。
今はそれらを見かけることは無いが、代わりに江戸前の海苔を商うのであろうか、看板を掲げる店が目立つ。
東海道が整備された折り、この六郷川には徳川家康により大橋が架けられた。
これは両国と千住に架けられた橋と共に、江戸の三大大橋と言われるほどの立派な橋であったそうだ。
しかし大洪水で流失してしまい、その後は橋を架けられることは無かったという。
六郷の渡しと呼ばれる渡し舟は、200年もの長きにわたって続いたそうだ。
渡舟の渡しは当初、江戸側の町人が請け負っていたが、その後は川崎宿が担当するようになった。
結果一人十文の渡し賃は、宿場財政の大きな支えになっていた。
明治になり橋が架かり渡し賃収入が無くなりはしたが、暫くは橋の渡り賃として一人五文を取っていた。
将軍吉宗に献上される象が長崎から来た折、この川では渡船で、或は浮き橋で渡した等と伝えられている。
当時の渡舟は、30人程運べる舟が主流である。
他にも牛馬を運ぶ船も用意されていたらしいので、渡船で運べなくは無さそうだ。
明治維新、明治天皇は初めての江戸入りでこの川を越えられたが、当時この川にはまだ橋がなかった。
その為、沢山の小舟を並べその上に板を渡した浮き橋を急遽作ってお渡りいただいたそうだ。
橋の袂には、「明治天皇渡御碑」が立っている。
広重の描く「川崎 六郷渡舟」には、遥かに富士山が描かれている。
全長443.7mの永代橋の中ほどから振り返ってみたが、どこにもその姿を見つけることが出来なかった。
当時はここから見えたのであろうが、生憎雲の多い日でもあるが、ビルやマンションばかりが見えている。
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