東京駅
東京オリンピックが始まる直前の、昭和39年10月1日、東海道新幹線が華々しく開通した。
世界で最初の高速鉄道の東京駅の誕生である。
その後国内には順次新幹線網が整備され、半世紀余りの間に北海道から九州までが標準軌の鉄路で繋がった。
画クハ、一日に3,000本以上の列車が発着すると言う、日本有数の巨大ターミナルとなった。
そんな駅も鉄道の歴史から見れば四半世紀ほど出遅れて開業している。
東海道本線が新橋と神戸間に開通後、上野まで延伸される折り、皇居を見据える丸の内に駅舎がやっと作られた。
日本国を象徴する、威信をかけた中央停車場は、大正3(1914)年12月に誕生した。
赤レンガを積み上げた、豪壮で華麗な佇まいを見せる洋風三階建ての駅舎であった。
威風堂々とした姿で旅人を迎え、送り出し続けた駅舎も、先の大戦の東京大空襲では焼夷弾を受け焼失した。
戦後にはいち早く復旧されたものの、それはかつての雄姿を再現するものではなかった。
そんな駅舎が近年、500億円もの巨費をかけ「赤レンガ駅舎」として現在地に復原された。
中央通りから新橋へ
現在では東京駅は、日本の交通網の起点であるが、江戸時代の街道の起点は「日本橋」であった。
橋の袂の交番前で、国道1号線の道路標識を確認し、旧東海道歩きの第一歩、中央通りを歩き始める。
暫くして右に折れる国道1号線から外れ、日本を代表する通りである国道15号線に入ってきた。
テレビや新聞・雑誌などでお目にかかる企業や銀行、商店、飲食店、老舗のデパートなどが軒を連ねている。
と言うより巨大なビルが立ち並ぶ、さしずめそのビルの谷間を歩くイメージだ。
そんな中、京橋に差し掛かると「警察博物館」と書かれた5階建てのビルが有った。警視庁の広報施設らしい。
その先で高速道路を潜ると、銀座の入口で、ここにはかつて京橋で使われていた橋の親柱が残されている。
その昔の銀座は四丁目までしかなく、その後尾張町、竹川町、出雲町などが銀座と名を変えていった。
結果現在では八丁目まであり、何時の頃か流行歌では、銀座九丁目は水の上などと歌われるようになった。
銀座は江戸幕府を支えた銀貨幣鋳造の役所が置かれた場所で、その町名発祥の地碑が2丁目の路上に立っている。
とにかく人が多い。横切る道路が多い。信号が多い。気になる店も多い。
通りはスーツ姿のサラリーマンや、制服姿のOLが忙しげに行き交っている。
それに交じり、観光客らしき姿も多く、さすが日本一の繁華街「銀座」である。
時折見かける、大きな塊で行動する外国人の一団は、今話題の爆買いツアーの訪日客であろうか。
一方で路上には、「大型車の駐停車お断り」と書いた紙を掲げる人がいて、乗り付ける客への対応をしている。
今日、爆買いは多少収まったとは言われている。
しかし銀座通りの外れ、7丁目から8丁目辺りの路上には、客を待つ大型の観光バスが何台も停まっていた。
京橋、銀座を抜け、首都高速のガードを潜り、新橋に掛かる辺りで「銀座柳の碑」を見る。
西条八十作詞、中山晋平作曲の銀座を唄った名曲を今日に伝えている。
このあたりまで来ると、通りに銀座のような喧騒は無くなり、人の流れは妙な落ち着きを感じさせている。
新橋と横浜の間に鉄道が開通したのは明治5(1872)年の事である。
当時の新橋駅は、後に貨物駅となりその後廃止となった汐留駅付近に造られていた。
木造石張りのモダンな駅舎だが、この辺りはまだ雨が降るとぬかるむような広大な空き地が広がっていたそうだ。
『汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として』
こう歌いだす鉄道唱歌の第一集(東海道編)が発売されたのは明治33(1900)年5月のことであった。
その後評判の良いことに気を良くし、立て続けに続編が売りに出されたと言う。
第二集「山陽・九州編」、第三集「奥州・磐城遍」、第四集「北陸編」、第五集「関西・参宮・南海編」である。
歌集の表題には「地理教育」と書かれ、小学生など低学年への地理や歴史を教える教育的な面もあったそうだ。
これらは歌いやすいメロディと、その土地の名物、名所、歴史等を織込んだ親しみやすい歌詞が受けたと言う。
歌集はベストセラーとなり、亜流が出たりしながら、それでも今日まで歌い継がれている。
高輪の大木戸跡
右手に「東京タワー」が見え隠れし始めている。
大門の交差点からは、芝増上寺であろうか、瓦屋根を被った山門らしき建物が窺える。
その先で金杉橋を渡る。
左手奥を流れる芝浦運河に通じる古川らしいが、殆どを高速道路が覆い、重苦しくかぶさっている。
陽も当たらず、魚も住めないだろう川は、かわいそうに思えるが、近頃では見直す機運も出始めているらしい。
そんな川にも漁船や釣り船に交じって、提灯を吊るした屋形舟が舫われている。
東京には、今でもこうして江戸の町人のように、屋形舟で川遊びをする風流が残っているのであろう。
このあたりが日本橋からは丁度4キロ地点である。
田町の道路沿いのビルの前に、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地」の碑が立っている。
西郷隆盛の孫の西郷吉之助の力強い揮毫である。当時、ここには旧薩摩藩の屋敷が有った。
維新前夜、江戸を戦禍から守る為、幕府陸軍総裁・勝海舟と西郷隆盛が会談、江戸城無血開城を取り決めた。
当時この辺りは海に面した砂浜に街道が沿っていて、江戸時代の海岸線が最後まで残された場所でもあった。
その先に石垣と大木が茂る小公園のようなものが見えてきた。
道幅約六間に造られたもので、江戸の南の出入り口にあたる「高輪の大木戸跡」である。
木戸と言うのは、治安の維持や交通機能を目的に、街道の両側に石垣を築き、そこに門を構えた場所のことだ。
開けられるのは明け六つから暮れ六つの間(午前6時頃から午後6時頃)で、夜間は閉めて通行止めにした。
旅立つ人を見送るのはここまでで、江戸の庶民が訳も無く、これを越える事は出来無かった。
木戸を潜ればいよいよ江戸とはお別れとなる場所だ。
当時ここは立場(旅人の休憩施設が集まった場所)で、七軒の茶屋があり、水杯を交わす姿も見られたと言う。
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