伝馬制の制定
天正18(1590)年8月1日、江戸に入った徳川家康は、その後関ヶ原の合戦で豊臣方に勝利した。
兵馬の全権を握り、この地に江戸幕府を開き、直ちに伝馬制を制定し東海道等諸街道の整備に着手した。
これは宿場ごとに公認の定められた人馬を置き、それらで交代しながら宿間を引継ぐものだ。
これにより幕府の公用のための書状や荷物などを、目的地まで円滑に運ぶ事が出来る。
中でも「東海道、中山道、奥州道、甲州道、日光道」のいわゆる五街道は最重要と位置づけた。
幕府道中奉行による直轄管理としたが、それらの整備にはかれこれ20年以上も要したと言われている。
(伊勢本街道・奥津宿)
(若狭(鯖)街道・熊川宿)
(会津西街道・大内宿)
(出雲街道・土居宿)
成立当初街道の各所に関所を設け、大川には敢えて架橋を禁じ、通行の妨げをするかのように道を曲げた。
こうした方策は、全て軍事上の道路としての機能を最優先させるものであった。
その一方で、街道沿いには大名などが泊まる本陣・脇本陣、行先を示す道標、一里塚や松並木などを整備した。
とは言え、当時は庶民にとってまだまだ気軽に歩き回れるものでもなかったようだ。
東海道の成立
『大江戸の中央にして、かつて、諸方への行程ここより定。
京三条の橋までの道のり百二十四里二十四丁、駅宿五十三次、これを東海道と言う。』
(「新東海道五十三次」 井上ひさし 文芸春秋社 昭和51年)
「海端を通るゆえ海道と申す」
東の海辺を通る「東海道」は、慶長6(1601)年、最も重要な交通路として、五十三次の宿場が整えられた。
その出発点は、当時町割りが始まりその中心に出来たばかりの「日本橋」だ。
幕府は整備した五街道(東海道、中山道、奥州道、甲州道、日光道)の起点を全てここに定めている。
街道の一里(およそ3.6Km)毎に設けられた「一里塚」の基準点もこの橋である。
江戸の日本橋から神君・家康所縁の地を経由して京の三条大橋までの間に、五十三の宿駅を定めた。
日本随一の幹線道路である近世「東海道」は、兎にも角にもこうして整備された。
三代将軍家光の時代に、参勤交代が制度化され、大名などの行き来が始まった。
利便性の向上に向け、当初の定めで36疋とされた伝馬の数もその後大幅に増やされている。
更に宿場には庶民も泊まれる旅籠や木賃宿が整備され、休憩のための茶店などが現れた。
そこでは土地の名物が持て囃され、道はやがて軍事目的から誰もが行き来できる公道として変貌していった。
更には旅のガイド本なども出版され、庶民の旅情を誘うようになる。
やがて庶民の間でも各地の有名な社寺詣でが流行だすこととなる。
中でもお伊勢参りは、一生に一度は行きたい庶民の憧れの存在となった。
特に60年に一度とされる「おかげ参り」では、全国各地から善男善女が何百万人も集まったとの記録もある。
「伊勢参り 大神宮には ちょっと寄り」、こんな川柳がある。
伊勢詣が賑わい出すと、これを口実にいわゆる観光名所等に立ち寄る物見遊山の旅などの動きも多くなる。
こうして街道には庶民の姿も目立つようにな通行量も次第に増えていった。
お江戸日本橋
当時から重要な水運の航路であった日本橋川と交差する地に、橋が架けられたのは慶長8年(1603年)のことだ。
江戸はまだ町割りが出来上がってすぐの頃で、川岸には高札場が有り、大層な繁昌を見せる魚河岸が有った。
当時の町の中心であるばかりでなく、経済活動の中心的な場所でもあったらしい。
広重は旅の始まりの図として「東海道五十三次の内日本橋朝之景」を描いている。
朝焼けの空の下、木橋を渡る大名行列、橋の袂の高札場、天秤棒で桶を担ぐ町民(魚屋)等の姿が描かれている。
当時この橋の西にはお城が聳え、東に江戸前の碧い海が広がっていた。
又北には浅草寺の大屋根が、南には遥か富士山を望む、そんな景観が広がっていたと言う。
橋は明暦の大火(1657年)で全焼するなど、幾度となく火災などで焼け落ち、そのたびに造り変えられている。
燃え易い木造橋から石造りに代わるのは明治に入って間のない頃で、現在の橋は明治44年4月に完成したものだ。
これは江戸から数えて19代目と言う。
日本橋は当時とは比べ物にならないほど広げられ、今では地名としても残っている。
日本の金融・経済や商業の中心的な場所として、その賑わいは400年前の江戸の開府以来変わることが無い。
通りには車が溢れ、川面にも観光船などが行き交い、橋の上を覆う首都高速道路では車が犇めき合って騒がしい。
そんな場所を行き交う人々は、慌ただしく足早で、その流れは川の水より遙かに速い。
橋の四隅は木や花が植えられ、公園風に整備されている。
数々のモニュメントが並び、重厚な瓦屋根の高札には橋の謂れや歴史などが刻まれている。
そんな中には魚市場発祥の碑や、江戸幕府最後の将軍・慶喜の筆による「にほんばし」と刻まれた橋柱などもある。
現在の橋は、国の重要文化財に指定され優美な石造り二連のアーチを見せている。
麒麟や獅子が飾られた親柱を背に、記念撮影する観光客の姿も多く、ここは観光のスポットでもあるらしい。
ふと道の中央に目をやれば、「日本国道路元標」と鋳込まれた50センチ四方の銅版が埋め込まれている。
昔の街道の一里塚もここを起点とされ、今も昔もこの地が、日本の中心であることに変わりはないようだ。
弥次・喜多の旅立ち
「お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪」
昔の旅人は七つ立ち、今で言う午前4時ころ、まだ夜も明けやらぬ暗い中に旅だった。
小田原提灯に明かりを灯し、日本橋を渡り、ご府内を高輪の木戸(江戸の出入り口)に向け歩き始めたそうだ。
日の出に追いかけられるように歩き、日中日差しの厳しくなると休み休み行き、日が暮れる前には宿に入っていた。
こうして一日10里の道のりを歩き、東海道なら12泊13日を標準として踏破したと言う。
現在の距離にして500キロ近い道のりには、山越えや川越えなどの難路もある。
毎日連続で40キロを歩き続けるわけではないだろうが、それにしても驚異的な脚力である。
『神田の八丁堀に独住の弥次郎兵へといふのふらくもの、食客の喜多八もろとも、朽木草鞋の足もと軽く(中略)
はやくも高なはの町に来かゝり、(中略)百銅地腹をきつて、往来の切手をもらひ、大屋へ古借をすましたかわり、
お関所の手形をうけとり、(中略)酒屋と米やのはらひをせず、だしぬけにしたればさぞやうらみん・・・、』
(日本古典文学全集49 「東海道中膝栗毛」 昭和50年12月 小学館)
有名な「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次さん喜多さんの旅立ちである。
意外にも七つ立ちとも、提灯を灯したとも、そんなことはどこにも書かれてはいない。
借金を踏み倒し旅立ったのは神田の八丁堀とあるから、日本橋を渡ったことは確かなようだ。
江戸っ子にとって高輪の木戸まではご府内で、これを潜るといよいよ東海道、旅の始まりと言う感覚である。
日本橋からここまではおよそ1里半、はやる気持ちを抑えゆっくり歩き始めても2時間とはかからない。
ここに着けば夜も明ける頃で、提灯の明かりも消したであろう。
軽い朝飯を食べ、改めて草鞋の紐を結び直し、木戸の開く明け六つ(現在の午前6時頃)を待ったでのあろう。
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